地獄の画家卍イラストエッセイ水無

俳優として全国CMで主演を務め、入社した映像制作会社で「喋りが面白いから」となぜかYouTuberにさせられてうっかり1,000万回も見られてしまう。地獄のようなイラストを添えたエッセイを毎日公開中。書籍化したいので、皆さん応援してくださいね☆

担任「この子は人の道を踏み外します」【地獄のイラストエッセイ】

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 お恥ずかしいことに、私は子どもの頃とんでもない暴君だった。それも学校に一人や二人はいるような“暴れん坊”ではなく、ちょっとやそっとのレベルじゃない大魔王のような暴れっぷりだった。

  魔王の片鱗が見え隠れし始めたのは幼稚園の頃だった。私は当時仲の良かった友人が一人遊びしていた遊具を「オラ~これよこせ~」と奪い取り、そのショックで翌日彼を休ませてしまった。
 彼の親から欠席の理由を受けた幼稚園の先生は連絡ノートで私の親に詳細を伝え、私はどうしてそんな事をしたのかと問い詰められた。だが私は「へへ~僕が使いたかったから!」と笑顔で答え、何を怒られているのかよく分かっていなかった。

 小学校に入ると可愛らしさが抜けて魔力だけが伸び、私は魔王になりつつあった。気に入らなければぶん殴り、教師には盾突きまくった。おかげで私はクラスの一部からは恐れられ、教師からはめちゃくちゃ嫌われた。
 だが一部の男子の目にはそんな自由な私が輝いて見えたのか、慕ってくれる友人が数名できた。私は仲良くしてくれる人はとても大事にしたため、その数名と一年、二年を謳歌した。

 小学三年になるとクラス替えがあった。私は二年が終わる頃にはすでに魔王と化していたが、新しいクラスになってあまり知らない生徒が増えたことでモジモジと縮こまっていた。本質的にはコミュ障だったのだ。
 だが一、二年で違うクラスだった生徒が恐れず話しかけてくれたりして徐々にクラスに馴染んでくると、少しの間眠っていた私の中の魔王が目を覚ました。
 私は授業中は漫画を読み、休憩時間は皆を集めて“シッペデコピンババチョップ”や肩パンなどの暴力的な遊びに興じ、掃除の時間はホウキを武器のように振り回して漫画の真似をした。だがこれがよくなかった。学校でよくある「ちょっと男子ちゃんと掃除してよ!」と言う女子を無視して友人と遊び倒しているとその女子に肩を殴られたので、私は思わず持っていたホウキでぶん殴ってしまった。当然その女子は泣き崩れ、私はその日の夕方におかんと共に彼女の家へ謝罪に行くことになった。これが私が今後何度も経験することになる“訪問謝罪”の始まりだった。

「先に殴ってきたのは向こうやもん!」と私は担任に自分の正当性を訴えたが、担任は「掃除をせずに遊んでいたのは君」だの「泣かせた方が悪い」だのと言って私が悪いということにした。たしかに遊んでいた私が悪いし、ホウキは危ないし、やられたからと言ってやり返すのはよくない。だが「泣かせた方が悪い」などとよく分からない理屈で頭ごなしに怒られたことで、私は余計にグレた。
 もちろん怪我をさせた女子にはきちんと謝ったし、痛い目や怖い目に遭わせて本当に悪かったと反省した。なので怒りの矛先を向けたのは担任だった。

 こうなるともう手が付けられない。私は担任の言う事を何一つ聞かなくなり、注意されても「うっせえババア!」と信じられないような悪態をついた。今思うと、あの頃の私は世の中の全てが気に入らなかったのだ。理屈はよく分からないが、悪態をついて暴れ回ることで精神を保っていたのだと思う。
 だが私が半グレ魔王に変身したことで「カッコいい!」となぜか一部男子からはモテてしまい、それがさらに私の勘違いを加速させた。

 小学四年が終わり、春休みに入ると学校では教師達が五、六年のクラス割りを考えていた。これは六年の時に私にブチギレた担任が口を滑らせたことなのだが、どうやら教師達の間で私の押し付け合いをしていたらしい。そしてどの教師も絶対に受け持ちたくないと拒否した結果、私はくじ引きでクラスが決まったとのことだった。

 五年生にもなると、私の凶悪さは学年中どころか学校中に知れ渡っていた。
 今の私の親友は五年生の時に違うクラスへ転校してきたのだが、クラスメイトから「二組の水無くんには絶対近付いちゃダメよ」と接触禁止令が言い渡されていたらしい。

 だがこの頃になると私は暴れ回る単細胞生物ではなく、クラスメイトに対してはとてもフレンドリーになり、友人もたくさんできた。休憩時間になると毎回クラスの半分を引き連れて校庭で鬼ごっこやドッヂボールをするなど、引率力が桁外れに高かった。さらに遊んでいるところに上級生が「お前らどけよここは今から俺達が使うぞ!」と言ってきても我々のグループには私がいたため、上級生だろうがなんだろうが私の周りの環境に害をなす輩は容赦なくボコボコにして、上級生の家にも何度か謝りに行った。
 そしてこの頃になると家でのお仕置きも軽いものではすまなくなり、車に乗せられて「これ以上悪いことをするなら山に捨てる」と近所の谷底まで連れて行かれたりした。おかんは泣き叫ぶ私を真っすぐな目で見つめて、暴力がいかに悪いことであり、何があっても絶対に手を出してはいけないことを真剣に説いた。

 だがそんな忠告から日も開かず、喧嘩中にお道具箱で殴られた時、ブチギレた私は中に入っていた鉛筆で相手の足を一センチほど刺してしまい、その日の夜、おかんは彼女自身の足を鉛筆で刺してどれほど痛いことなのか私に知らしめた。その時私は大泣きして反省したが、その後もやはり頭に血が上ると私は自分を止めることが出来なかった。

 他にも自分より身長が二十センチは高いハーフの友人と殴り合いの喧嘩をしたり、言いがかりをつけてきた隣のクラスの話したこともない男子を張り倒したりして何度も訪問謝罪に出向いた。ちなみにこの隣のクラスの男子は中学でヤンキーになり、私に張り倒されたことをずっと根に持っていた。
 普段の行いが悪いので、もめ事が起きるとたいてい私が悪いことになった。だがこの担任の采配が私をさらにグレさせ、六年になる頃には完全に教師達に牙をむく大魔王になっていた。担任だろうと学年主任だろうと校長だろうともう手が付けられなかったのだ。

 そんなくじ引きで押し付けられた私のことが大嫌いな担任との三者懇談では当然ぼろくそに怒られ、おかんは何度もすみませんと謝っていた。しかし最後に担任が言った言葉が、私に大きな変化を生んだ。
「はっきり言いますけど、この子は私の三十年の教師生活の中でも一、二を争う悪い生徒です。将来は人の道を踏み外すでしょう」
 それを聞いて私は強いショックを受けたが、黙って聞いていたおかんがゆっくりと立ち上がって言った。
「この子の躾が出来ていないことは完全に私達親の責任であり、学校やクラスメイトに迷惑をかけていることは本当に申し訳なく思っています。しかし今のは教育者が言っていい言葉じゃない!」
 その言葉を聞いて、私はハッとした。学校では怒られ、家でもその事で怒られ、自分は誰からも必要とされていないのだと思っていた。だがその時初めて私はおかんが守ってくれたことで、私を覆っていた怒りの外郭がボロボロと崩れていった。

 中学に入ると、私はヤンキーの先輩からグループに入るかと誘われたが断った。中学で出来た友人は比較的おとなしく、私は全てを憎んで暴れるよりも、平穏に楽しく過ごす方がよっぽどいいと気が付いた。小学校の頃の友人はもう連絡先すら知らないが、中学の友人は今でも頻繁に連絡を取り合っている。

 人は言葉ひとつでこれほど変われるのだ。昔ぶん殴ってしまった友人には本当に申し訳ないと思う。なので私は自分の子どもは人に優しくできる子に育てていきたいと思う。

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