全国CM主演俳優までの軌跡六~引退を決意~【水無のイラストエッセイ】
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二〇一一年の九月頃から全国でCMが放送された。CMは日中、ゴールデン、深夜と凄まじい勢いで放送され、親しい友人はもちろん、親戚や小学校の頃の友人なども「見たよ! 凄いね!」と祝福してくれた。
そうして順調に進んでいるかと思われた私の俳優生活だったが、その後一年半ほどはほとんど仕事を貰えなかった。私は事務所からの案件を待つだけではダメだと、事務所に許可を得て大阪だけでなく東京で撮影の雑誌のモデルや映像のオーディションなどに積極的に参加したが、結果実を結ばなかった。
ライバルだったラキオも退所し、さらに舞台俳優でなくテレビに出たいなら大阪で活動していても道はかなり狭いということを業界関係者数名から直接聞き、私は人生を左右する決断をする必要があった。このまま大阪で芽が出るのをじっと待つか、東京に行ってチャンスにかけるか、引退するか。
降った雨が嶺の左右どちらに流れるかでその雨粒の未来は大きく異なる。その分水嶺に立った私は、自分の未来を見据えた。愛する地元大阪を出てまで本当に俳優業を続けたいのか。目立つことが大好きな私は、俳優ではなく趣味でやっているバンドに腰を据えるという選択肢はないのか。あるいはそれらは全て趣味として、普通に働くという選択肢はあるのか。
悩んだ結果、私は二年半居た松竹芸能を退所し、バンドのボーカルとして発音を矯正して次のステージに立つため、そしてあわよくば将来の役にも立てばと思い、カナダに語学留学することを決意した。松竹で頑張っていた他のみんなも、結局夢を叶えられず数年後にはほとんど退所した。
正直未練がないわけではなかった。ただ、大阪でバイトと俳優業をかけ持つこの生活がこの先何年も続けられるのかと想像すると、自分にそこまでの忍耐力はないと悟ったのだ。
元々『昔からずっと俳優になりたかった』という夢を持っていたわけでもなく、単に目立ちたかったからという不純な動機で始めたのだ。自分の人生を投げ打ってでも夢を掴もうとする人間には勝てないし、勇気も足りなかった。
そうして今は専門学校で得た知識を使って映像制作の仕事をしているのだが、俳優業で身に付けた技術や知識に助けられたことがいくつもある。
まずは演者の気持ちが分かるという点。『演者はこういうふうに思うし、スタッフはこう思う。ならその両方の最大公約数を取ればいい』という考えが出来る。これは経験しないと分からないので、自分だけの技術だと思う。
そして以前『気付けば1,000万再生のYouTuberにされていた話』というエッセイでも書いたとおり、今の部署では私が単独で動画を出すことも多いので、喋りでの表現力が桁違いだと視聴者から支持を得ているのもこの経験があるからだと思う。
他にも人前で何かする時にまったく緊張しなくなったのも大きい。カメラや大勢の前で芝居をすること以上に緊張する場面など、普通の仕事ではなかなかないのだ。
この後私がカナダの留学で何を得たのかは、次のシリーズ『ワーホリ体験記』を見ていただければと思う。
俳優として成功することは出来なかったが、あの頃の特殊な経験は今の自分を彩り、構成する大きな要素となっている。遠回りはしたかもしれないけれど、無駄ではなかった。私は俳優業に就いて良かったと、今でもそう思う。
ちなみにラキオとは今でも仲がよく、頻繁に連絡を取り合っている。今は結婚して企業で働き、性欲が赴くままに官能小説を書いている。同じ物書きとしてかつての頃のようにまた切磋琢磨したいところだが、私のエッセイが官能的になっても困るので、彼の創作活動には関与しないでおこうと心に決めている。
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