全国CM主演俳優までの軌跡三~選抜に選ばれる~【水無のイラストエッセイ】
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事務所での挨拶を終え、みんなが帰って誰もいなくなったレッスン室に戻ると、選抜に入るにあたってマネージャーから二つ言われたことがあった。
一つは来週の選抜レッスンまでに外郎売(ういろううり)を覚えてくること。もう一つは今選抜で練習しているハムレットの台本を可能な限り覚えてくることだった。我々は「はい!」と威勢のいい返事を残して退出したのだが、出るや否やそのヤバさに二人は大慌てだった。
外郎売とは活舌の練習の金字塔で、アナウンサーや声優、俳優などは避けては通れぬ道だ。『拙者親方と申すは~』から始まる歌舞伎の一節で、二千字弱ある。しかも途中からは『麦、ごみ、むぎ、ごみ、三むぎごみ~』といったように早口言葉のエッセンスも加わるというなかなか厄介な代物なのだ。
初級レッスンの準備運動でもやってはいたが「特に覚えようとしなくていいのではっきり明瞭に言えるようになれ」と教わっていたので、二割程度しか記憶していなかったのだが、これを来週までに……? さらにハムレットの有名な長台詞『生きるべきか、死ぬべきか~』も加わるとなると、本気で腰を据えて覚えなければならない。これがどれほどヤバいかと言うと、隙間なく書かれた四百字詰め原稿用紙八枚ほどの台詞を一言一句違わず暗記し、さらにハムレットに関してはそれを自分なりに解釈してどう演技するのかを考えていかなければならないのだ。記憶力が本当に悲惨な私にはこの世の終わりのような難題だった。
それから選抜レッスンまでの一週間、私はラキオと連絡を取り合い、どこまで覚えたかを報告し合った。私はバイク通勤だったので運転しながらブツブツと念仏のように外郎売とハムレットを唱えても問題なかったのだが、電車通勤のラキオは電車の中で『おちゃだちょちゃだちょ――』などと言っていたので、完全に変質者と化していた。
ちなみにこれは記憶術のコツなのだが、基本的に人は目で追うだけでなくプラス口にも出して反復することでより記憶しやすくなるのだが、ラキオのように電車の中や歩きながらものを覚えたい人は、冬場限定ではあるがマフラーを巻くのが効果的だ。すっぽりと口周りを覆えば多少口が動いていても周りにはバレないので、めちゃくちゃオススメである。
さて死ぬ気で外郎売とハムレットを覚えた我々は緊張の面持ちでいつものレッスンスタジオへと足を運んだ。いつも十五人ほどいる初級とは違って中には四人しかおらず、人数の少なさが我々の緊張をさらに加速させた。
最初の三十分はいつも通り準備運動をするのだが、その後は並び方からして違った。初級では適当に散らばっていたのに対し、芝居をする鏡前のステージを向いて座布団に座りだすではないか。この配置は明らかに舞台における『観客』と『役者』を意識している。
講師が来るとハムレットの一人芝居を順番に行なうことになったのだが、これも進め方が初級とはかなり違う。あちらは人数が多いので一度やったら講師から意見を貰ってハイ次の人、という流れなのだが、選抜ではやる→意見→それを反映させてやる→意見→それを反映させてやる→意見――と、数回にわたって連続で芝居をするのだ。これは文字で読んで想像する以上に難しくて、自分が考えてきた芝居に貰った意見を即座に組み込んでやり直す必要があるので、ゆっくりと落とし込む余裕がないのだ。ゆえに貰った意見を反映させずに芝居をしてしまって怒られるということが何度かあった。
そして一つの台本を二、三回のレッスンで消化する初級と違い、選抜では一つの台本を三カ月近く使うこともよくあった。より違う解釈で、そしてより深く掘り下げることで芝居を昇華させていこうということだった。
しかしこう言っていいものなのかは分からないが、率直な意見を言いたいと思う。
稽古ではハムレットやアンドロマックといったようなヨーロッパの演劇が題材となることが多かったのだが、いかんせんこちらは現代日本人。ハムレットの嘆きもエルミオーヌの怒りもイマイチ理解しがたい。『ピュリスが滅びればいい!』と書かれた台本を読み込んでも、当時のそういう貴族の気持ちなんてとてもじゃないがきちんと理解できない。『なりきれ!』と言われても、ゴールのフラッグがどこでどんな形をしているのかが分からない。想像の域を出ようがないのだ。駆け出しの舞台役者はそういう作品を何作も何度も見て時代背景などを調べたりしてようやく演技のための想像開始の笛が鳴るのだ。
私は普通に今放送しているドラマの台本を使ったレッスンの方がよかった。ホテルの高層階レストランで食事をする恋人、そこで偶然昔の恋人と再会して――。そういった台本を貰えた時は人一倍嬉しかった。私はテレビ俳優志望なのだ。
私はラキオに、お互いの芝居で気になった点を書き出して渡さないかと提案した。講師から貰えるプロの意見の他に、客観的な意見も何かの参考になるのではないかと思ったのだ。これはこの先もずっと続けることになるのだが、結果としてお互いの良い点悪い点を洗い出すことができて、効果があった。ちなみに私は『息が多い』とよく書かれていた。
そうやって我々がハムレットの嘆きを学び、エルミオーヌの怒りを模索していた三月の中頃、私の精神を揺るがす大事件が起きた。レッスンを終えた私とラキオが帰ろうとしていたところにマネージャーがやって来て、こう言ったのだ。
「ラキオ、あんたにワイドショーのロケの仕事が入ったよ」
驚天動地、悲喜交集とはこのことである。エキストラの仕事なら今までいくつもやってきたが、単体での仕事は私達はまだ一本も経験がなかったのだ。
『先を越された――!』
ラキオは同期で入所し、同時に選抜に選ばれ、これまで二人ずっと一緒に切磋琢磨してきた一番の仲間。本来は喜ぶべきところなのだが、私は悔しさのあまり脳みそが溶けそうだった。ラキオがデスクで説明を受ける姿を見ていられなくなり、私は「お疲れ様でした」と言ってスタジオを出た。ずっと一緒にやって来た一番の仲間だからこそ、絶対に負けたくない一番のライバルだったのだ。
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