地獄の画家卍イラストエッセイ水無

俳優として全国CMで主演を務め、入社した映像制作会社で「喋りが面白いから」となぜかYouTuberにさせられてうっかり1,000万回も見られてしまう。地獄のようなイラストを添えたエッセイを毎日公開中。書籍化したいので、皆さん応援してくださいね☆

アホみたいに服を買っていた話【エッセイスト水無】

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 私が服に興味を持ったのは小学五年の時に姉に連れられて行った、関空の近くにあるりんくうタウンフリーマーケットだった。私はそこで初めてTシャツ二枚を自分のお金で買い、着飾ることの素晴らしさを知った。大人になったような気がしたのだ。

  それからというもの、私は地域情報誌ぱどに記載されているフリーマーケット情報を毎回チェックするようになり、開催と聞くと一人自転車で三十分ほどかけて行くほどまでにドハマりしていたのだ。
 物の価値もまだ分からないくせに大阪人根性たくましい私は幼い身ながらしっかりと商品を値切り、見た目の可愛らしさもあって(自分で言うのもなんだが、昔私はとても可愛い男の子だった)出店者はすさまじい割引をしてくれた。

 中学に入り、私の足はりんくうタウンフリーマーケットから、難波のアメリカ村へと向いた。多少値は張るものの、マセガキの私がオシャレに支配されたあの街に魅了されないはずもなく、日本一高い私鉄と呼ばれる南海電車に五十分ほど揺られ、貯金が許す限り足しげく通った。まだファッションのファの字もよく分かっていなかったので、後からどうしてこんなものを買ったのだろうと苦悩することもあったが、私はクラスメイトの誰も知らないようなオシャレな街で買った服にたいそう愛着を持っていた。

 高校に入り、私は近所のラーメン屋でアルバイトを始めた。とにもかくにも服代を稼がなくては話が進まないのだ。かくして毎月四万円ほどのお金を手にした私の浪費っぷりには目を見張るものがあった。湯水のごとく消えるお金と入れ替わるかたちで六畳の和室が新しい服で埋もれていく。あの時の私はさながらバブル時代に夜の街を歩くオヤジのように、散財の喜びに浸っていたのだ。
 私が好きなのは古着やアメカジだったので、一着ごとの単価は幸いそこまで高くなかった。とは言えTシャツ一着に四千円ほど出すのもザラだったので、昼に出かけて日が暮れるまでアメリカ村を練り歩き、悩みに悩んで数着を買っていた。
 専門学校に入って難波のドン・キホーテでアルバイトを始めた私の収入は、高校時代のおよそ五割増しになった。この辺りからは同じ古着でもヴィンテージ系のお店に出入りするようになり、量より質に切り替わった。周りがデートだ飲み会だと一時期の娯楽にお金を使うなか、私は変わらず服の収集に収入のほとんどをつぎ込んだ。

 ここまで書いておいてなんだが、私は雑誌を熱心に読んで流行やコーディネートの研究をするようなオシャレさんではない。好きな服を収集するのが好きといった方が適切だ。流行には流されず、自分の好きなスタイルの服しか絶対に買わないというポリシーがあるのだ。

 現在三十二歳で娘もいる私は、もうアホみたいに服を買うことはしなくなった。貯金も始めたし、終身保険にだって入った。かつて買った大量の服は、着ないものは売り、着るものだけがいくらか残った。残存率は三割といったところだろうか。
 今でも服を見るのは好きだが、服の買い方が変わった。街に繰り出して朝から晩まで見て回るのではなく、好きなブランドの服をフリマアプリで買うようになった。非常に効率よく、かつ安価で好きな服を買うことできるようになったが、新しい服との出会いに胸をときめかせていたあの頃のような気持にはもうなれないのかと思うと、ときおり寂しく感じることがある。

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これからもエッセイを投稿していきますので、気に入っていただけましたらまたご覧ください。
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