地獄の画家卍イラストエッセイ水無

俳優として全国CMで主演を務め、入社した映像制作会社で「喋りが面白いから」となぜかYouTuberにさせられてうっかり1,000万回も見られてしまう。地獄のようなイラストを添えたエッセイを毎日公開中。書籍化したいので、皆さん応援してくださいね☆

体育大学付属高校でバレー部を作る【水無のイラストエッセイ】

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 体育大学付属高校なのに、バレーボール部がない……。入学初日にそのことに気付いた私は、華の高校生活をどう過ごすべきかと頭を悩ませた。

  小学五年から地域のバレーボールチームに入っていた私は、まったく上手いわけでも好きなわけでもなかったが、惰性でバレー部にはいるものだろうと思っていたのだが、その計画は早々に崩れ去った。
 中学からの友人が誰一人いない私立高だったので誰かに相談することも出来なかったので、私はポスターなどを見て入部する部活を探した。
 文科系はまったく頭になかったので運動系で探していたのだが、当時はじめの一歩にドハマりしていた私はボクシング部に入部しかけたが、殴って気持ち良かったとしても殴られたら多分相手を許せなくなるうえ体力なし男だったので、見学に行くまでもなく断念した。

 二週間ほど決めかねていて、もうアルバイトでもしようかと悩んでいた時、頭で電球が光った。『バレー部がなければ作ればいいのか!』
 ちょうどその頃、クラスでは『栗原さんか大山さんか』といった論争が起きるほど日本女子バレーが大流行しており、私はクラスの人間に声を掛け、バレー部を作った。
 幸い人数も六人揃い、部室へと案内された時は心が震えたのを覚えている。自分達は一年なのにこのバレー部を好きにしていいんだと思うと、目の前には希望しかなかった。本来なら二年と三年がいるので、運動部ならではの上下関係を二年経たのちに訪れる自由を、自分達は早くも今手に入れたのだ。実際これは野球部やサッカー部など他の部活に入るクラスメイトからはかなり羨ましがられた。それはそうだ。誰も先輩に気を使ってヘコヘコしたくなどないのだ。

 こうして私達のバレー部ライフがスタートした。経験者が私だけだったので、べつに上手くもなんともないのだが消去法で部長を任された。私は小、中と部活でしてきた練習メニューを洗い出し、メンバーと相談して部活の内容を決めた。メンバーもバレーについてはワールドカップのテレビ放送くらいしか知識がないので、特に反論もなく順調にクラブ活動は進んでいた。

 だが顧問やコーチにしごかれているバスケ部や女子バレー部を横目に、やりたい放題する新参者の様子がどうやら彼らの気に触ったらしく、名ばかりだった顧問がたまに来るようになってしまった。このバレーボールのバの字も知らない教員はセクハラクソ野郎とのあだ名がつく、見るからにイヤらしい顔をした中年男性で、生徒からの人望はゼロに等しかった。当然我々もまったく好きではなかったのだが、顧問がいないと部活として認めてもらえないので我々は黙って従う他なかった。

 するとある日、この男は私を部長のポストから解任した。どうやら気が強く喧嘩腰な私が気に入らなかったようで、もっとも責任感の強い真面目なメンバーを部長に据えた。私は最初は許すまじと怒りに震えたが、よく考えれば部長は何かと面倒だし、真面目な彼に任せた方がスムーズだと気付いて納得した。プライドもクソもない、非常に現金な男である。

 しかし部活スタートから三カ月が過ぎた頃、誰よりも顧問を嫌っていたメンバーがランニングの途中に顧問と言い合いになり、部活をやめた。「おい貴様! 話は終わっとらんぞ戻ってこい!」と顧問が叫び、我々が見守るなか、彼はスタスタとランニングコースを走っていき、そのまま部活に戻ってくることはなかった。

 その一年後に新入部員が一人入り、我々は一度だけ練習試合を行なった。結果はボロ負けだったが、いい想い出になった。

 こうして我々の自由気ままなバレー部ライフは幕を閉じた。試合で切磋琢磨し、青春の汗と涙を流す――と言ったような感動やドラマはなかったが、あまり経験しえないことを出来たため、今となってはあの輝かしい日々が懐かしい。
 勉強がとにかく嫌いで高校をサボりまくっていた私が無事卒業できたのは、このバレー部があったからだと思う。

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